寝違えてしまってわかった普通に動ける有難さ。
昨日から年末年始のお休み。
やりたいことがモリモリで、まずは早朝RUNからスタートしようと起きようとしたそのとき。。。
「・・・あれ?首が動かない。。」
そう、あろうことか、休暇初日に寝違え。
それも未だかつてないスーパーウルトラ級の痛さ。。。
首を5㎜左右どちらかに動かすだけで、左の首から胸にかけて激痛が走る状態。
「・・・やべ、どうしよ。。。」
「うーん、とりあえず走ったら治るかな」と思って起きようとしても、首を動かすと激痛が走るので、右にも左にも動けない。。。
ヨメを起こすわけにもいかず、一人で少しずつ可動域を探りながら起き上がろうとすること30分、ようやく横を向くことができて、そこから15分かけて起き上がることができたんです。
さすがに走ることはできないとあきらめて、洗濯からスタート。
しかし、動くにつれて痛みは増す一方。
起きた来たヨメからもらったロキソニンを投入して、2時間後にようやく5cmくらいは首が回るようになりました。
普段は当たり前のことができなくなると、”有難い”という感謝の心が生まれてきます。
そもそも「有難い」とは、仏教の 「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」と言われるたとえ話から来ていると言われます。
その話は、こういうものです。
ある時、釈迦が、阿難(あなん)という弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」
と尋ねた。
「大変、喜んでおります」
と阿難が答えると、釈迦は、次のような話をしている。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には、一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は、風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。阿難よ。百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか」
阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことは、とても考えられません」。
「絶対にないと言い切れるか」「何億年掛ける何億年、何兆年掛ける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と、釈迦は教えている。
なるほど。
人間に生まれて、自分の思い通りに体を動かせて、日々不自由なく暮らせること自体がものすごく難しいこと、つまりは、有難いということです。
そんな話を思い出しつつ、寝違えてしまったボクに変わって朝食をつくってくれる子供達、「なにしてんのよ!」と罵声を浴びせつつもロキソニンを出してくれるヨメ。
本当に有難いと思う次第です。
【おススメ】マーケティングの取扱説明書。